近藤貴馬(西喜商店 四代目)のブログ

京都の老舗青果店、西喜商店の四代目。㈱セガにて6年間営業職を務めた後、㈱地元カンパニーに入社。「地元のギフト」事業の全国展開を担当。営業のみにとどまらず地域に関わる様々な業務をこなし、2015年に京都にUターン。現在はリノベした京町家に住みながら、西喜商店の事業拡大に取り組む。

自己紹介②〜今に至ったそもそも〜

 

※この投稿は、2013年5月に私が前職である株式会社地元カンパニーに入社した時に書いた記事です。大企業で働く続けることに疑問を感じつつも、なかなか現状から脱却できなかった自分からの解放がテーマの記事です。20代中盤でモヤモヤ期のサラリーマンの方は是非どうぞ。

 

こんにちは。

地元カンパニーの新入社員の近藤貴馬です。

お前誰なんだという疑問すら浮かばれないかもしれませんが、

自己紹介を兼ねてブログを始めました。

一回目のざっくりした自己紹介こちら。

今回からなぜセガを辞めて、なぜ八百屋を継ごうと思って、

なぜその前に地元カンパニーに入ろうと思ったかを書きます。

一人でも多くの、モヤモヤしている同世代サラリーマンに届くとうれしいです。

で、まず、この「なぜ」の3点は複雑に絡み合っています。

それぞれ一言では言い表せません。

その複雑に絡み合った糸を紐解いていくと、

そもそもの出発点は、「セガを辞めたい」です。

ネガティブなスタートですが、これは一切否定しません。

最初に辞めたくなったのは、

当初から見初められて、参加させて頂いていた大規模プロジェクトが、

プロジェクト参加前の現場研修中に中止になったときです。

ちょうど入社して1年が経とうかというあの日です。

そのプロジェクトがあったからこそセガに入社したので、

その中止の報せは当時23歳の僕の夢の全てをシャットダウンしました。

(もっとも、僕以上に上司先輩各位の失意たるや相当なものだったと思います。)

これプロジェクトが仮の仮にGOだったらまた随分違う人生を送っていたと思います。

さてあの時、ぼくはこれから何を頼りに会社で働けばいいのか、と、全くわかりませんでした。

辞めたくもなりましたが、辞めようにも辞めて何をどうすればいいのかもわからず、

仕事というのは名ばかりのただ会社に行くだけの半年間くらいを過ごしました。

今思えば、この時やめなくて本当に良かったです。

その後、ようやくそれらしいプロジェクトに参加させてもらえるようになり、

一生懸命働くものの、その企画もなかなか陽の目を見ることができず・・・

入社3年目の25くらいの時でしょうか、大手転職斡旋企業に出入りしたんですが、

特にやりたいこともなければ、実績も0でにっちもさっちもどうにもブルドッグ

地で行くような生活でした。

今思えば、この時やめなくて本当に良かったです。

でもまあこんな感じで、常にセガにずっといることはないなと思いながら過ごしていました。

このように、仕事に恵まれなかったのがセガを辞めたくなった理由の一つ目。

2つ目の理由は、最後の3年間でしっかりと営業の経験ができたことです。

(セガには丸6年いました。)

最後3年間は、ゴルフ練習場に新しい機械を売るという

かなり泥臭い営業でした。

最初は営業をするのが本当に嫌でした。

だって、施設の企画がしたくてセガに入ったのに。

でも、やるしかないですから、やりました。

本当にやってよかった。心からそう思える3年間でした。

テレアポ、飛び込みから始める営業だったので、

まあ人並みに辛いこともありましたが、

おかげさまで営業マンとしての自信はつきました。

セガのゴルフの機械は日本で一番いい機械です。

ゴルフする方は是非設置先の練習場に行ってください。

REC CHECK GOLF

で、営業の仕事してて、ふと思ったわけです。

そういえば、俺のおとん野菜売っとるな、と。

この機械売りの経験活かせるんちゃうかと。

そう思ったわけです。

そう思ったことをおとんに伝えたところから、

とんでもないことになるわけです。

この肝の話はまた今度。

最後、3つ目の理由、それは地方で働くあの方とあの方の存在です。

どなたとどなたの存在かはまた次回書きます。

ただ、単にネガティブに辞めたかった訳ではないのです。

仕事がうまくいかない中で、インターネットなどを覗いていると、

まわりで新しい何かを生み出そうとしている人がいるわけです。

それを見るに連れて、ふつふつと湧き上がる何かがあって、

でも、その何かが何かはっきりと言えなくて、

もんやりモヤモヤしていたのです。

このモヤモヤがスッキリして、会社にも恩返しをして、

前向きな気持ちになったら辞めよう。

ずっとそう思っていました。

あ、語弊がないように締めに書いとかなければいけないのは、

僕はセガを辞めたくても、セガの人と仕事をするのが好きだったので、

6年間セガを勤めたんだということです。

ろくに実績の無い若手を最後まで面倒見てくださった上司先輩には、

死ぬまで頭が上がりませんし、

いつも側で支えてくれた同期一同には感謝の気持ちしかありません。

この場を借りて改めて御礼申し上げます。

というわけで、今回のまとめは、

僕が今ここにたどり着いた理由の一つは、

どこにでもよくある、会社で働いていてのモヤモヤである、ということです。

次回は、どうやってこのモヤモヤを解消していったか、

書いていこうと思います。

たかーいビルの上から、夢を見ていた時期もあったなぁとモヤモヤしているところ。

地元カンパニー入社時の自己紹介

※この投稿は、2013年5月に私が前職である株式会社地元カンパニーに入社した時に書いた記事です。大企業で働く続けることに疑問を感じつつも、なかなか現状から脱却できなかった自分からの解放がテーマの記事です。
20代中盤でモヤモヤ期のサラリーマンの方は是非どうぞ。




はじめまして。

近藤貴馬(とおま)です。

2013年5月から㈱地元カンパニーで働かせていただくことになりました。

営業を担当しております。

京都の八百屋のセガレです。

できたら二年くらいで京都に帰って八百屋を継ぎたいと思っています。

皆さんに早く自分のことを知っていただくために、

この場をお借りして自己紹介をさせて頂きながら、

あれやこれやと思ったことをごりごり発信していきたいと思います。

もう一度言いますが、僕は京都の八百屋のセガレです。

父親は京都で八百屋を営んでいます。

ただ、八百屋といっても、店先で「らっしゃいらっしゃい」

てな感じではやってません。

昔は店頭販売もやっていましたが、20年程前にやめました。

近くにダイエーができたり、なんだりかんだり、いろいろあったみたいです。

では、どんな商売をしているのかというと、

JRAのトレーニングセンターが滋賀県栗東市にありまして、

縁あって父親が調教師さんと知り合いで、

そこに馬が食べるにんじん、りんご、キャベツ、大根などなどを

配達することで生計が成り立っています。

それを八百屋と呼ぶかと言われれば怪しいところですが、

まあ、そういうことにしてください。

飲食店に卸していたこともありましたが、

平たく言えばトレセンへの配達だけで手一杯になってきたりしたのもあって、

今はこれがほとんどの収入源です。

この仕事一本で僕は大学を卒業させてもらいました。

実家は京都の西院です。

ざっくりいうと嵐山とか金閣寺とか、ソッチの方に行く時に通過する

普通の住宅地です。

いわゆる田舎では全くなく、

近くにイオンとジョーシンがあるような普通の住宅地です。

普通の住宅地に育ち普通に中学に行くのが嫌で、

中学受験して立命館中学校に入学しました。

小学校6年の頃が一番机に向かって勉強したと思います。

そこから大学までエスカレーターでスイーッと進学しました。

中学は普通の野球少年でしたが、

そこから高校を卒業するまで、

やっぱり普通になるのが嫌で、

アメリカに留学してみたり、生徒会長をやってみたり、バンドをやってみたり、

がんばりました。ただ、がんばりすぎました。

順風満帆に見られるところが歯がゆいところですが、

違う違う、そうじゃ、そうじゃないんです。

苦境だらけの高校時代でした。

大学時代は政策科学部という学部の中で、

ここは結構エンジョイしていました。

大学生活は本当に楽しかったです。

ここで自分にとって大きなターニングポイントがありますが

それは今度書きます。

で、さんざんエンジョイした後、

株式会社セガに入社しました。

で、いろんなことがあって、

セガを辞めて京都に帰って八百屋を継ごう!と思い立ちました。

(何がどういろいろなのかも今度書きます。)

でも父親から猛反対を受けて、説得を続け、納得させ、

(ここ、1行で納めるほど容易いものではなかったですがこれも後ほど。)

で、継ぐことを決めたんだけども、

その前に地元カンパニーで働きたくなったので、

今ここにいる、そんな感じです。

ふー、申し訳ありません。ちょっと自己満足。

でも書きたくて。

次回からはよく聞かれる、

なんでセガをやめて、

なんで八百屋を継ぎたくなって、

なんで地元カンパニーで働きたいと思ったのか

を書いていきたいと思います。

 

ぼくはにんじんのおかげで大きくなりました。